情報コード  DSK3
情報登録日  2019/05/23
情報作成者  河井正治

1.水泳共通のインテリジェンス

2.水の抵抗 の科学 その1. 断面積に比例

    ・・・・流体の水をどう押すか・・・・

1.水の抵抗
 図1に示したように、水中で物体が右から左へ移動すると、移動方向に対して逆方向に移動を阻むように必ず水からの抵抗を受ける。水の特性である。この抵抗を反作用抵抗と呼ぶ。


             図1.水の特性、移動物体に対する反作用抵抗

この反作用抵抗には次の2つの物理学的特性がある。
      1.抵抗は物体の断面積に比例する。
      2.抵抗は物体の移動速度の2乗に比例する。
いずれも泳ぎの水中進行に対し極めて重要な要素がある。今回は1.について考えてみよう、

2.水中進行物体の断面積
 水泳は水に浸かって前に進むので、人間の身体が水中移動物体になる。図2に見られるように泳ぎの中で、惰性進行している場合でも、「かき」を行って加速している場合でも、常時水からの抵抗を受けている状態である

 

             図2.泳ぐ選手は常に水の反作用抵抗を受ける

 陸上で行われる他のスポーツでも空気という流体にスッポリ浸かって行われているので同じと言えるのであるが水中に比べると抵抗の規模が桁違いに少なく、スキージャンプなど一部の例を除いては、あまり問題にされない。水泳は水の抵抗が大きくこれを真剣に考慮に入れないと勝負にならない。受ける抵抗は、右図に表した水流方向から見た断面積(抵抗断面積という)に比例することになる。抵抗断面積は姿勢の取り方で大きく変動し、タイムに大きく影響を及ぼす。


               図3.太った選手は抵抗が大きい

 図3は、太った人は抵抗が大きいことを表したスケッチ図である。太った人は右図のように抵抗断面積が上段の普通の選手より大きくなってしまう。断面積を比べるために太った場合を黒塗りにして重ねて表示すると黒ゾーンのようにはみ出してしまう。結果、黒ゾーン部分だけ抵抗が増えることになる。
 このことは、欧米の巨漢のように大きな選手より、ひ弱に見える身体の小さい日本選手の方が抵抗が少なく有利である。記憶があるだろうか、30年ほどの前のバルセロナオリンピックの女子200m平泳ぎで身長148㎝の中学2年生の女の子であった岩崎恭子選手が金メダルに輝いたことを。子供のように小さな岩崎選手が170cmを越すアメリカと中国の選手を抑えてトップでゴールした。日本中が沸いたこの勝利。要因の1つに小さな身体の小さな水の抵抗があった。

3.斜め進行での抵抗差は何倍にも!
 水中進行の場合、進行方向に対し、身体が傾いている場合は水から受ける抵抗は極めて大きくなる。
        


              図4.傾斜進行の場合

 図4は、選手の水中進行に対し、抵抗断面積が斜めの時は大きくなることを示した図である。上段の平行な場合に比べ斜め進行では、中央図のように正面から見るとお腹や足が大きく見えてしまう。抵抗を受ける断面積が大きくなる。正面から見えた図を斜め進行図を黒塗りにして右図のように重ねて表示すると、斜めの場合は黒部分がはみ出して大きく断面積が増大していることがわかる。目視の推察でこれだけわかるのであるが、定量的に知るために流体解析を行ってみた。利用したのは、イギリス製のPHNIXというソフトウェアであるが詳細は省略する。  

                    図5.モデリング

 図5に、水中惰性進行姿勢のモデリングしたものを示す。当時のコンピュータの処理能力の関係で、簡易的に単純なブロックの積み重ねで表現した。水泳の流体解析で現象の推察にはこの程度のモデリングで十分である。


                    図6.計算条件設定

 計算条件は、進行の身体の傾きに関しして、身体が進むのではなく、水が流れる状況にした。これはまったく等価である。傾斜角を0°、5°、10°、20°にして計算を行った。


                 図7.計算結果の圧力分布図

 図7は計算結果の圧力分布図である。赤から紫がかった部分が高圧力域で、青系が圧力の低い域である。ちょっと飛び出した頭の先が水を受けて圧力が高まっている。しかし、全体的に」ストリームラインができており、さほどの抵抗がない状況である。


                図7.計算結果

 図7は、その計算結果の数値である。実際の状況では選手の体格・姿勢など千差万別なので計算数値そのものは厳密に評価できないが、モデリングした同じ形体の物体が傾きを変えるとどういう風に抵抗が変わるかをかなり正確に推察できる。比の項を見てみると0°の時を100%とすると、5°では3割増、10°ではなんと2.4倍、20°では5.1倍もの抵抗増大である。進行方向と身体の傾きがこれほど大きな抵抗の差になっていることがわかった。これまでの実際の泳ぎの映像観察では、10°位傾いているのは日常茶飯事で、その選手は傾かないで泳いでいる選手の2倍もの抵抗を乗り越えて泳いでいることになり、エネルギー的に大きな損失をしている。

4.スタート入水を考えてみる!
 一例としてスタートジャンプ後の入水技術を考えてみる。


               図8.一連のスタート動作

 図8に一連のスター動作を模式図で示した。選手は、スタート台上での号砲までの構え、空中への飛び出し、空中姿勢(図では省略)、着水点での水への突入、と泳ぐとはまったく別の動作を行う。それぞれに重要なポイントがあるが、詳細はスタートの解説項を参照して欲しい。この一連スタート動作で最も差のつく重大なポイントのうちの1つがジャンプの後の水への突入動作である。ちなみに、1992年のバルセロナオリンピックで、H亨選手は100m平泳ぎで惜しくも4位でメダルを逃してしまった。その時を分析すると、金メダルのアメリカ選手とのタイム差0.35秒であったが、スタート浮き上がりの時点で0.68秒も差をつけられていた。つまり、その後の泳ぎは金メダリストより勝っていたのである。今にして思うと、スタート技術の重要性があまり認識されていなかった時代の日本水泳の非常にもったいないエピソードである。後述するが、悔しかった彼はその後、真剣にスタート練習に打ち込んだ。


             図9.入水時の身体傾きによる突入抵抗の差

 図9は、スタートジャンプ後の入水時の突入方向に対する身体傾きで生じる突入抵抗の差を示したものである。スタートジャンプに続く水への突入(入水と呼ぶ)は、高速度で水面に突入するのでその瞬間に大きな水の抵抗を受ける。これを入水抵抗と呼ぶ。流体解析の結果で、身体の傾きと突入方向のズレによる抵抗の変化は、ズレのない場合との差が5°では1.3倍、10°では2.4倍、20°の では5.1倍も水の抵抗が違うことがわかった。


           図10.傾斜角による入水の後の水中での大きな違い

 図10の左側のように突入時のズレがない場合、突入状況が進んで行く時身体の傾き方向と突入進行方向が一致しているので、図のように水面上の一点に次々と身体が入水していくことになる。一点に入水しているように見えるので、これを一点入水と呼んでいる。選手のスタート台を蹴る力での飛び出し速度と空中からの落下速度が加算された大きな突入速度が突入抵抗によりある程度は減速を受けるが、そのまま真っ直ぐな水中進行に移行される。
 傾斜して入水する場合、まず、傾き角度による大きな突入抵抗にため、傾き0°に比べてもっと大きな減速を強いられてしまう。その後の水中進行速度が大きく落ちてしまう。さらに困るのは、突入抵抗の上向き成分が手先を持ち上げるように働くので、一直線の身体が形成する棒の先端(手先)に上向きの力を与えることになり、棒先を押し上げて棒が回転してしまうことになる。現象的には足先がドボンと落ちてしまう状況になる。入水時の足落ちと呼ぶ。


                 図11.水中進行の大きな違い

 図11に示すように、その後の水中進行では大きな違いが生じてしまう。傾きのない突入(一点入水)の場合、選手は上半身を反らすような姿勢をとることで方向転換をはかる。こうやると、突入で得られた速度をあまり減速しないでその後の水中進行へと円滑に継続できることがわかっている。世界で行われている常識的なテクニックである。
 一方傾き入水の場合、水中ビデオ観察するとほとんどのケースで足落ちが発生している。
足落ちすると、当然突入速度を殺してしまう。と同時に、足落下の影響のため水中進行に移っても足の下がった状況になり、斜め進行になってしまう。これでは、また計算した傾斜進行になってしまう。大きな損失となる。
 
5.H選手の努力
 実際の例を見てみよう。H選手はオリンピックでの悔しさを吹っ飛ばすようにスタート練習に打ち込んだ。もっとも重視したのが「一点入水」技術普通のプールで行って何度もプールの底に頭をぶつけたようである。今考えるととてつもなく危険な練習だった。途中から周りの方々の忠告を受けて飛び込みプールにて練習を行うようになった。


                   図13.H選手の成果

 図13は、彼の練習成果状況である。当初約10°の傾斜入水であったのが、訓練後は見事一点入水を行っている。約1年の歳月を要した。
 図14は、その後のビデオ水中映像でコマ落とし表示である。コマ間隔は0.3333秒(1秒間30コマ)である。上段の一点入水時にの映像では、突入直後見事に方向転換しているのが見受けられる。水中進行に移った段階でも見事一直線の水平進行となっている。下の連続画像は当初の斜め突入時で、左端の画像には、見事に足落ちしている様子が写っている。そして後の水中進行が明らかに傾斜状況となっている様子がわかる。


                   図14.入水後の水中進行の違い

 図15は、その後の水中進行の様子で、左側が一点入水スタートの場合、右側が傾斜入水の場合である。真ん中の黒字はスタートからの時刻で、映像は両方の頭の5m通過時点から左側の頭6m通過時点までの0.1秒ごとのコマで、1秒95の映像は省略した。比べてみると両方とも5m通過は1秒75でほぼ同時であったが、6m通過時点で差が生じている。左が6m通過したのは2秒05であるが右の方は2秒15になっている。右は傾斜進行なので抵抗が大きく進行速度が遅くなってしまっている。5m~6mの所要時間が0.1秒も違うのである。


                  図15.5m及び6m通過の映像

 実際のレースでは平泳ぎの場合、ルール上ギリギリの15mで浮き上がる。泳ぐより水中進行の方が速いためである。とすると、5m通過から15m浮き上がりまで10mあるので、0.1秒×10=1秒という大差の計算になる。これは大きい。特に右のような傾斜進行では抵抗が大きく、進行は進むほど速度が落ちてくる。この後の計測では10m通過時点でもう1秒もの時間差が出ることになった。
 その後実際のレースでの比較では15m通過が1秒3も速くなっていた。この結果彼は日本記録を1秒3以上短縮することになった。
 見た目にはほんのちょっとの傾き差10°が、泳ぎ始める前のスタート後10m通過時点で1秒以上の差が出ることがわかった「傾き進行」。栄光の新記録樹立にはこんなインテリジェンスがあった。

6.泳ぎの中での傾斜進行問題
 水中の傾斜進行は、各種の泳ぎの中で大きなロスを生んでいる。これを「傾斜進行問題」と呼ぶ。さまざまな種目の泳ぎで重要な基本技術として考えられている。一例として背泳ぎをあげてみる。
 図16は、北京オリンピック男子200m背泳ぎ決勝の水中映像である。上の図は日本代表のI選手、下段は優勝したアメリカのL選手である。注目して欲しいのは、両選手の腰の落ち方の違いである。I選手はお尻が下がってしまい結果的に背中部分が12°の傾斜進行になっている。これでは背中全域で水からの抵抗を受けていることになっている。こういう状況を水泳用語では「腰落ち」とよぶ。


              図16.北京オリンピック男子200m背泳ぎ決勝

それに比べてL選手はお尻位置が高く保持され背中とおしり出っ張りの位置が水平になっている。傾きなしの水中進行である。抵抗の少ない状況で泳いでいる。
 2人がどのくらい違うか、流体解析により推定してみる。


           図17.傾き条件         図18.モデリング

 図17は、腰の落ち方の状態を推定したスケッチ図で、背中と水流とのなす角を0°、5°、10°、20°という設定条件で解析を行った。


                    図19.計算結果

 図18は、例によってモデリングである。使用ソフトはPhenix社の同じものである。上半身だけなので、全身を伸ばした場合より差が小さめになったが、やはり、20°では3倍ほども抵抗が大きいことがわかった。I選手の12°落ちでは1.7~2倍近い抵抗を背負って泳いだことになる。レースの200mは実に長丁場である。実際のオリンピック決勝レースでは、2倍近い抵抗を背負って泳いだI選手は、レース後半で消費エネルギーの関係で、どうしてもL選手を追い越すことはできなかった。
 傾斜進行によるロスはメダル獲得に影響を及ぼすほどの重大技術なのである。残念ながらI選手は引退するまでこんなロスに対し何の手当もしなかったようでその後のオリンピックでも金メダルには届かなかった。当初からこの腰落ちロスを何度も指摘したのであったが、当人の回避努力はなかったようである。インテリジェンスのセンスのない選手やコーチの大変もったいない状況になることの代表的な例である。

7.「科学の力で世界と戦う」
 考える日本選手に変わった・・近年のオリンピックでの日本選手の活躍にはこんな背景があったのである。「スポーツインテリジェンス」が武器なのである。
 以後も「科学の力」をわかりやすく解説したいと思う。