情報コード  DSK1
情報登録日  2019/05/20
情報作成者  河井正治

 

1.水泳共通のインテリジェンス
  
1.「水を押す」科学  その1. 後ろに押す

      ・・・・流体の水をどう押すか・・・・

1.進むということを考える!
 スポーツの最も基本的なことは「進む」ということである。
例えば球技はボールや玉を「進める」ことで行われる。野球について考えてみると、ピッチャーがボールを投げてそれを打者が打って行われる。投げる動作も打つ動作もボールを「進める」ことである。テニスや卓球もラケットで玉を打って、相手が取れない場合には得点になるルールとなっている。球技では、玉を「進める」ことが基本的動作なのである。図1は、ボールを投げる動作の模式図である。投げるということは、手でボールを前に「押す」ということなのである。速く押せば速く飛ぶ。速球投手はそれだけ速くボールを押しているのである。図2は、走る動作の模式図である。走って前に進むには、足で地面を後ろに蹴っていることになる。早く走る選手はそれだけ早く蹴っているのである。

 

         図1.ボールを投げるには          図2.走って前に進むには

 物理学には、押されて動く物体には慣性モーメントという概念が考えられており、物体の重さが一定ならば強く押されればそれだけ速く動くという法則がある。(体積が一定ならばかけた力は移動速度の2乗に比例する)難しい理論は置いても、「強く押せば速く動くことになる」と考えていい。 
 陸上競技で走る種目(100m走、マラソンなど)は速く走ることで競われる。走るということは、自分の身体を速く前に「進める」ことである。競泳も同じである。決められた距離をいかに速く泳ぐかで勝負が決まる。速く泳ぐということは、水の中で自分の身体を速く前に「進める」ことである。
 図3は、泳いで前に進む選手のスケッチ図である。とりあえず手だけを考えてみると、泳いで前に進むには、肩を中心に腕を回しながら「手をかく」動作をする。前に進むわけだから「水をかく」動作は結果的に水をうしろに「押す」ことになっているのである。
 読者の君に質問してみよう。今まで「手のかきで水を押して前に進んでいる」と考えて泳いでいただろうか。泳ぐフォームや動作は、腕を回して「水をかく」と教わったので義務感にかられて腕を回しているのではないだろうか。「手のかき」で後ろに水を押すことで進むことを実現しているとがわかれば、おのずから動作パターンが変わってくると思う。しっかり「水を押す」ことができれば、意外と簡単に君も速く泳げるのである。
  


          図3.泳いで前に進むには      図4.押す方向の違い


2.水を「押す」ことを科学する。
 水を押して進むということを考えてみよう。図4の上段の1)のように、進行方向と反対の赤い矢印方向へ(垂直に)壁を押した場合、反対方向に同じ大きさの力を壁から受けるのが物理の法則である。「反作用」という。水は不定形の流体なので、壁や地面のように固定された物体の場合とは違い、普通に押して抜けてしまう。しかし、押し方を工夫すればちゃんと反作用が働き、押し返してくれる。水の押し方の工夫には水の流体としての特性を利用した素晴らしいテクニックが考えられているが、クロールの項で別に解説する。ここではとりあえず押す方向について考えてみる。図4①の場合のように水が押せたとして、身体が前に進むのは反作用の力(青い矢印)による。強く押せば強い反作用で速く前に進める。進むのは青い矢印方向である。4図中段の2)のように斜めに押してしまうと、同様に押した方向には反作用抵抗力が発生するが、身体を前に進める青い矢印方向の進行方向成分は減少してしまう。しっかり力いっぱい水を押しても目に進む効果が少なくなってしまう。4図下段の3)のように下に押した場合はせっかく強く押しても進行方向性成分は0(ゼロ)になってしまい、前に進むための加速が出来ないことになる。斜めや下に「押す」と効率が極めて悪いことがわかる。速く前に進むにはきっちりうしろに「水を押す」ことが重要である。

3.世界トップ選手の動作の比較
 努力のおかげで、今の日本水泳界はかなり科学思考になった。世界水準にもそう遅れはないと思う。しかし20年前は大きな遅れをとっていた。例えば当時の男子100m自由形世界記録は48秒台、日本記録は51秒どうしても切れないという状況であった。3秒も遅れを取っていたのだ。自由形のタイムを距離換算すると3秒差は8mもの進行差に相当した。この状況を打ち破るため、水中映像の調査が始まった。図5の中央左側の連続映像は、当時のN選手権の男子100m自由形優勝者のN選手の、「かき」開始から0.5秒間の0.1秒間隔の連続映像である。「かき」動作前半部分である。この時の記録は51秒ギリギリであった。右側の連続映像は、2008年8月の北京オリンピック女子200m自由形で決勝で優勝し金メダルを獲得したイタリアのPellegrini選手のレース映像である。ちなみにその時のタイムは1分50秒29という当時の世界記録であった。女子と男子の違いはあるが、技術力には大きな差がある。映像は、27m付近のもので同じく0.1秒間隔のかき始めから0.5秒間のものである。

 


                図5.クロール「かき」動作の比較

 ①が「かき」はじめで、⑤が「かき」初めから0.5秒後ということになる。映像で手の動作を比較してみる。左のN選手は、肘を伸ばしたまま腕を回転するように「かき」を行っている。従って手のひらがうしろに向きはじめるのはやっと⑤くらいと思える。本格的に後ろへ水を押すのは「かき」始めから0.4秒後ということになる。右のPellegrini選手は、肘を曲げて「かき」を行うので、手のひらが後ろ側を向くのは③くらいとなる。
 図5と図6は、「かき」動作の手の動きを見るため、手の動きのスケッチ図を肩の関節部分を合わせて重ねて表示した図である。
 

 

         図6.日本N選手の水の押し方      図7.Pellegriniの水の押し方

 図6では、N選手は、肘を伸ばして「かき」を行うため、「かき」始めから③くらいまでは、後ろにとは言えず、水底の方向に水を押したことになっている。前に進むにはうしろに押さなくてはならないはずである。④で手のひらが少し後ろ方向に向き出して0.4秒後の⑤で十分ではないがうしろに押し始めている。選手に「水を後ろに押して前に進む」という概念がないためのこのような動作だと思われる。
 図7のPellegrini選手は、①の「かき」初めから肘を肩の高さに固定して、肘を曲げて「かき」動作を行っている。こうすると手のひらはすぐ後ろに向き始め、0.2秒後の③ではもう「かき」でに「水押し」が後ろ向きになっている。そして③、④、⑤としっかりうしろに水を押している様が見とれる。なるべく早くたくさん力強く「水を押して」いるのだ。「うしろに押して前に進む」と行くことを意識した「かき」動作であることは疑いない。
  


       図8.両選手の水の押し始めの状態       図9.後ろに押す力の計算


4.動作の効率を考える!
 図8を見て、動作中、手のひら方向に水を押していると仮定して、水押しの効率を考えてみる。手のひらが押している方向とうしろ方向のズレ角をθとすると、押す力をFとする。簡単な三角関数理論で、前に進むための後ろに「押す」力はFcos(θ)となる。後ろに押す効率はcos(θ)分になる。両選手の手のひらが押している方向の角度を1コマずつ計測して効率を計算したのが表1である。

          表1.両選手の水押しの効率の差
    



角度の項が押している方向と後ろ方向との角θ、cosの項が三角関数値、後ろ押し成分の項が真後ろ押しを100%とした場合の「押す」効率である。両選手を比較するとPellegrini選手の方が圧倒的に効率の良い「かき}と読み取れる。③の時点では、水を後ろに押す効率は1.7倍にも達している。
 図10に、両選手の①から⑥までの0.5秒間の手のひらの水押し方向角度を計測し、Cos値により算出した効率の変動の状況を示す。
    


             図10.「かき」前半の水を後ろに押す効率の変化

 簡易的に集計してみると、この0.5秒間の6回の効率%合計は、N選手が228.2、Pellegrini選手が448.1となった。N選手はPellegrini選手の51%しか水を後ろに押していないのであった。6回とも最高効率で押したならならば600なので、Pellegrini選手は「かき」動作前半で力を使った分の75%をも後ろに押すことに使ったことになる。それに反しN選手は38%しか使っていないと思われる。水をプール底方向に押すという大きな損出をしていたのである。

5.「かき」動作前半の「うしろに押す」効率の差で1.1秒も差がついている! 
 この時のレースの実測値によると、⑤の時点でのN選手の進行速度は2.24m/秒であった。Pellegrini選手は⑤時点で2.53m/秒という高速度が計測されている。やはり、「水押し」の効率が良いためである。やはり両選手の左手の「かき」前半結果は、効率の差で生じたのである。これは重大なことである。⑤前後の0.1秒間の進行差を調べてみると、Pellegrini選手は0.1秒間に25.3cm進んだ。N選手は22.4cmである。2人の進行距離さは引き算すると2.9cmになる。1ストロークでは右手と左手を「かく」ので倍の5.8cmの差がつくことになる。100mレースでは40~50ストローク前後なので、仮に40ストロークとすると、5.8cm×40回=2.32mとなる。つまり、この0.1秒間で生じるこの差によってレース全体で2.32mもの差がつくことになる。相手は女子なのだが、男子100m自由形種目の平均速度を考えてみると2.5m/秒位なので、2.32÷2.5=0,93秒となる。男子の世界トップ水準では、⑤前後の瞬間に2.75m/秒位になるので、差は4.08mにもなる。タイム差で1.63秒にもなる。当時の日本記録と世界記録の差の3秒のうち1.6秒ほどはこの「かき」前半のうしろに「水を押す」効率の差ということになる。

6.衝撃を受けた日本の競泳界!
 この計測結果は日本の競泳界大きな衝撃を走らせた。
 「うしろに押して進む」・・・当たり前のことだが、考えていなかった。わかればやってみる。もちろん実現のためのテクニックは必要なのだが、考えてやってみるとあっという間に世界のトップ水準になってきた。現在、男子100m自由形種目の世界記録と日本記録との差は1秒以内に迫っている。もうちょっとで手が届く。強くなった日本!嬉しい限りである。

7.「科学の力で世界と戦う」
 考えるようになった日本選手・・・リオでの日本選手の活躍にはこんな背景があったのである。
 「科学の力」ということを理解していただくために。泳いで進むための「かき」動作の前半部分のケースを例にとってわかりやすく説明したつもりである。わかっていただけただろうか。「科学の力」は北島康介選手の世界記録達成にも寄与した。