情報コード  DE3
情報登録日  2019/03/14
情報作成者  河井正治

Episode Ⅲ 

・・・・金メダルの涙・・・・                               

1.金メダリスト最年少記録
 君はオリンピックの全種目の金メダリストの最年少記録を知っているだろうか。100年以上続いているオリンピックで、最年少の金メダリストは日本の選手である。その名は岩崎恭子選手。今から27年前のバルセロナオリンピックで、岩崎選手は女子200m平泳ぎで見事に金メダルに輝いた。その時彼女は2週間前に14歳の誕生日を迎えたばかりであった。沼津の中学2年生の彼女がなんとオリンピックの舞台で堂々と金メダルを獲得したのであった。レースの2位は中国のリー選手、3位はアメリカのノール選手、両選手とも身長は175cm以上。表彰式では148cmの岩崎選手が、両側に大人の女性に囲まれた子供のように見えた。テレビの中継画面の強烈な印象が今でも頭の中に残っている。
 中学2年生のこの快挙に日本中は大騒ぎであった。特に水泳界への刺激は大きかった。このオリンピックでは競泳の獲得メダルが彼女の金メダル1個だけであったが、それまで陰口で「出ると負け」という日本水泳界がこれで大きく変遷することになった。今はご存知のように毎回複数のメダルが誕生するような状況である。北島選手のように2種目金メダルの2連覇という凄い事態も生じるようになっている。

2.当時の最先端平泳ぎ
 随分昔のことだがこの時の決勝レースを振り返ってみよう。彼女の優勝タイムは2分26秒65であった。2位のリー選手が2分26秒71、3位のノール選手が2分26秒72であった。岩崎選手がかろうじて勝利したが、2位と3位は0.01秒差、1位から3位までが0.07秒差という激烈なデットヒートレースであった。当時の世界記録はノール選手の2分25秒台であったと思う。下馬評ではノール選手が1位、リー選手が2位、岩崎選手は注目もされていなかった。私の周辺に当時の記録がほとんど残っていないので、私とコーチの水野氏の記憶で150mのターン時の状況を再現すると、一番で折り返したのがノール選手、100分の1秒差でその隣で岩崎選手が折り返し、リー選手は1秒近い遅れの折り返しだった。その後の50mで小さな14歳の岩崎選手がトップに立ってゴールした。史上最年少金メダリストの誕生であった。いったいこの50mでどんなことが起こったのであろうか。実は、その後北島選手が確立した近代平泳ぎの技術を、あの小さな岩崎選手がやっていたと推察されるのである。

     表1.岩崎恭子選手の金メダルレースのストロークとラップタイム


 残っているコーチの水野氏のメモを表1にした。バルセロナオリンピック女子200m平泳ぎ決勝での岩崎選手のストローク数とラップタイムである。
 スタートから50m折り返しのストローク数は21であった。当時14歳になり立てで身長148cmしかなかった彼女のスタートはひ弱で、飛び込んで1かき1蹴りで浮上したのは9mあたりであった。ということは、その後第一ターンまでの泳ぎは41mとなり、1ストロークは195cm進んだことになる。当時の平泳ぎは、好タイムを目指して力強くピッチを上げて泳ぐというのが流行していた。女子種目ではスタートから第1ターンターンまでは25ストローク以上で、1ストロークで170cmも進めば長い方であった。しかし、彼女の泳ぎは195cmも進んだのである。長いストロークであった。ピッチが遅いので彼女がゆっくり泳いでいるように見えていたのだが、50mターンを34秒台で折り返していた。当時としてはとても考えられないことであった。
 DBの平泳その1「進行停止問題」で解説した先端平泳ぎ技術での進行停止問題の対応策4ではストロークを長くしてタイムアップを狙うという手段を解説した。対応策4の先端平泳ぎ技術は、1996年のアトランタオリンピックで南アフリカのヘインズ選手が行って金メダルに輝いた技術をきっかけに研究が始まった。その原理が判明したのは2000年頃であった。そして2004年のアテネオリンピック前後に北島選手によってその技術は確立された。今考えると「進行停止問題」対応が平泳ぎの先端技術として、その全貌が分かるまでに10年以上かかったことになる。バルセロナオリンピックは1992年である。北島選手のアテネオリンピックの勝利の12年も前に、小さくてひ弱に見えたあの少女が現代平泳ぎの先端と思える技術で泳いていたのだった。14歳と2週間の少女が手にしたオリンピック金メダル、その舞台裏にはこんな技術的な事実があった。

3.岩崎選手との出会い
 私が岩崎選手と出会ったのは1991年10月の静岡県営プールでのオリンピック候補選手合宿であった。当時日本水泳連盟は、オリンピック前年の日本選手権大会で各種目上位2位以上の選手を候補選手に指定して強化合宿を行っていた。その年の日本選手権は6月に行われた。私が水泳の解析を始めて1年目であった。その大会の女子200m平泳ぎ種目になんと12歳の少女が2位に入ってオリンピック候補選手になったのである。岩崎恭子選手の登場である。彼女の誕生日は7月下旬なのでその時は12歳の中学1年生であった。ストロークを長くして泳ぐことを水泳界では「大きな泳ぎ」という。試合でスタンドから彼女の泳ぎを初めて見たとき、私は「おぅ、なんと大きな泳ぎなのだろう!」と感心した。
 その年10月の強化合宿が行われた。この合宿の趣旨は選手と所属コーチとが充実して練習出来る会場を提供するということで、参加は自由、すべて自主練習という粋なものであった。その合宿に岩崎恭子選手とコーチの水野隆一郎氏が参加したのだった。私は2人と初めて会った。その時は13歳、日本の代表候補の実力選手の岩崎選手、どんな大選手かと思っていたら、彼女は小柄な可愛らしい少女だった。どこに筋肉があるのだろうという感じの小さなほっそりとした少女。「えっ!なんで・・・・」と思ったのを覚えている。
 水中カメラをいれて、彼女の泳ぎを撮影した。水に入った彼女は実に大きな泳ぎの大選手に変身した。泳ぎに圧倒されてしまったのを今でも記憶している。映像を見て、「こんなにゆっくり泳いでいるのになんでこんなにすごく進むのだ!」と日本選手権大会の時以来再び大きな驚きを覚えると同時に、水泳テクニックは奥が深いと改めて感心した。

4.「水をくぐるような泳ぎ」(始めて明かす金メダルの秘密)!
 水野コーチの話をしっかり聞いた。「平泳ぎは水の抵抗を大きく受けるので、水をくぐり抜けるように泳ぐといい。」とのことであった。
「水をくぐるような泳ぎ」。「えっ!えっ!えっ!」と、まだ水泳の技術解析を始めて1年目の右も左もわからない自分の技量の未熟さを痛感する言葉であった。
 君は覚えているだろうか。DB平泳その2「進行停止問題」で解説した先端平泳ぎ技術の対応策4では、ストロークを長くしてタイムアップをはかると解説した。図1がその時の図である。図の左側ように1ストローク動作の中でキックの後の1直線姿勢をもう1つ追加して惰性進行部分を増やしてストロークを長くするということだった。。

      
 岩崎選手と水野コーチの金メダル泳ぎは「水をくぐる」泳ぎであった。よく考えると、「くぐる動作」は必ずくぐっている最中が惰性進行状態になる。上図の右側のように、キック後平泳ぎ原則の1直線姿勢から、惰性進行で「水をくぐって」進む。つまり左側と比べてみて、「1直線姿勢を追加」と「水をくぐる」とは結果的におなじことになると言える。言葉の表現が違うだけである。やはり、対応策4の一環と言えるのである。
 アトランタオリンピックのヘインズ選手(南アメリカ)の金メダル泳ぎを参考に10年かけて掴んだ「進行停止問題」対応策4の技術(直近ではリオデジャネイロオリンピックで金藤選手がこの泳ぎで金メダル獲得したという正に現代平泳ぎの先端技術)を、今から27年も前のこの2人が堂々と実行していたのである。「くぐる泳ぎ」を考えた水野氏、それを見事に実現した小さな岩崎選手、彼らは平泳ぎの本質を直感で捉えて金メダルを実現したことになる。凄いことではないだろうか。今にして正に脱帽である。ここからが人間ドラマである

.Episode Ⅲ

 感動的な金メダルの栄光からもう四半世紀が過ぎた。

5.1 少女岩崎恭子の葛藤
 オリンピック金メダルのおかげで、日本中の有名人になった中学2年生の岩崎恭子選手は、学校でもクラスでもスイミングクラブでも、社会でも、栄光の人となった。友達も目上の人も近づく人は皆一目おいて話しかけてくるようになった。・・・しかしそのため、楽しく笑い合って遊ぶ心を割った仲間や友人がいなくなってしまった。中学2年生の女の子・・・彼女は孤独になってしまった。一人ぼっちだった。
 どうもその頃、水泳がまったく嫌になってきたようである。「私がこんなになってしまったのは水泳のせいだ。オリンピックに出たからだ。出るために苦しい思いをして練習に励んだのはなんだったのだろう。」と思いは深まる一方だった。当時の彼女は落ち込んでいた。私に無理やり水泳をやらせた(と思い込んでしまった)水野隆一郎コーチがうとましく思えるようになってしまった。
 「もう水泳はやめた。」と一度決心をしかかった彼女を救ったのは、T選手の登場である。
北海道出身の彼女は、一心不乱にオリンピック出場を目指していた。東京の大会会場で出会った2人はなぜか気があった。岩崎選手はT選手の情熱溢れる目を見て、バルセロナオリンピック前の自分の水泳に対する情熱を思い出した。「そうだ!私にはやっぱり水泳だ!」2人はあっという間に親友になった。そして、なんと同じ種目で2人そろって次のアトランタオリンピックの日本代表になったのである。心配していた私はホッとして喜んだのだった。

5.2 水野コーチとの出会い!
 岩崎恭子選手のコーチの水野隆一郎氏は、伊豆長岡の温暖な温泉とイチゴの里にお住まいで、60才になった今でも相変わらず幼児の水泳指導に情熱を燃やしている。伊豆の大自然の中での子供の水泳指導、なんと魅力的な人生なのだろうか。
 気が合うのか、バルセロナオリンピック以後27年間、今に至るまでお付き合いして頂いている。住んでいるのが伊豆と山梨と離れてはいるが、よく飲んで世界を語ったものだった。
 彼は温厚な人格である。日本の有名コーチは、怒鳴って嫌がる選手に無理やりやらせるパターンの水泳指導者が多いのだが、彼は上手に誘導して選手が自分から進んで練習をするように仕向けるというパターンである。静岡合宿で初めて出会った岩崎選手と水野コーチの練習時の会話状況を見て、ほかと違うことに驚いたのを思い出す。
 その彼が、「水をくぐるように」という平泳ぎの本質を突いた発想をして岩崎選手の金メダルを生んだ。私の解析がそれに追いついたのは10年も経ってからだった。優れた彼の発想力、今でも尊敬の念が絶えない。27年もの長い付き合いにはお互いの尊敬心があってのことだと思う。多分彼もこちらを尊敬してくれているのだと思う。「大切にしなくてはならない友人」、私の大切な宝である。

5.3 金メダルの涙
 バルセロナオリンピックから6年たった夏のある日、ガラ携もスマホもなかった時代、うちの電話がなった。出てみると相手はゴニョゴニョと何か言っているようだが聞き取れない。「もしもし」と何度も聞き返しているうちに声から水野隆一郎氏であることがわかった。「水野さん、どうしたの。何?何?」といっても何を言っているか聞き取れない。気がついたら彼は電話の向こうで泣いていたのだった。「あの水野氏が泣く・・・・何事だろうか。」
 なだめながらゆっくり時間をかけて聞き出した時、水野氏の流す涙がなんと素晴らしい涙なのだと感動を受けてしまった。
 その日は、あの岩崎恭子選手の20才の誕生日だった。水野氏のお宅の電話に、恭子君からの予期せぬ電話がかかってきた。彼女が大学進学で状況して以来久しぶりの電話であった。思いつめたような電話の声で「先生、今日20才になりました。大人の仲間入りです。私がここまでこれたのは水野先生のおかげだと思います。先生、本当にありがとうございました。」・・・・。水野氏は、聞いたとたん息が詰まった。「ありがとう。君はこれから素晴らしい人生が開ける。頑張ってください。」やっとそれだけ言って電話は終わった。
水野氏に涙が溢れた。「あの恭子が20才になってお礼の電話。節目にきっちりとお礼。大人になった恭子。・・・・」水野氏は嬉しかった。「恭子からの電話・・・恭子のお礼の言葉・・・大人になった恭子・・・」涙が止まらない。当時40男の嬉し涙。彼女の言葉を借りると「今まで生きてきた中で一番嬉しいこと・・・」だった。
 彼女の思いはどうだろう。オリンピック金メダルの栄光、その後の苦しかった孤独の時間、疎ましかった水野コーチ、T選手との出会い、嬉しかった水泳の再開・・・・。少しずつ大人に近づいた彼女は、疎ましかった水野コーチへの気持ちがお礼の気持ちに変わっていたのであったのだろう。20才の誕生日の節目に彼女は決断して電話をかけた。思いつめたような電話の声・・・。水野氏は泣いた。・・・この涙、正に金メダルの涙。バルセロナオリンピックから6年も経って流した金メダルの涙。・・・

6.嬉しくて流す涙の素晴らしさ
 電話を受けて水野氏の泣いているのを知った私。水野氏の涙。大きな感動に圧倒された。と同時に私は2人が羨ましく思えた。「くぐる泳ぎ」を考えた天才コーチ水野氏、見事に水をくぐった天才少女岩崎恭子君、彼女のお礼の電話、それを聞いて涙を流す水野氏、なんと素晴らしい生き様なのだろう。
 このエピソードからもう20年が過ぎた。水野氏は60才を超えた、私も70を越えた。恭子君も今や主婦である(年は秘密)。
 君はどう感じただろうか。悲しくて、悔しくて流す涙より、嬉しくて流す涙には比較にならないほど素晴らしいものがある。人は勝ち負けで悲しくなったり悔しかったり嬉しかったりする。涙が流れるのは常である。でも、今回のエピソードのように、人の触れ合いでの涙は大きな感動を生む。大きな感動を生むということはそれだけ人間にとって重要なことなのだろう。水野氏にとって、岩崎恭子選手のバルセロナでの勝利による喜びと岩崎恭子君の電話のお礼の嬉しさはどんなものだったのだろうか?
 水野氏は、「大切にしなくてはならない友人」、私の大切な宝である。